犬がルーティンを好むように
わたしにも
ルーティンというものがある
毎日、朝起きたら白湯を500ml
飲みながら、昨日の出来事を日記を書く
日記はもう18年間も続いている
見返すとその日のことを思い出すのだが
なかなか見返すことはない
高校生のときの日記なんて
字体から伝わるキャピっと感をみるのも
そのときの思い出に
触れるのも恥ずかしくて
開かずのノートと化してる
あとは毎朝おきると
睡眠時間を記録して
今日のテーマを設定する
寝る前にはそれを見返して
今日の振り返りを軽くし
今日のよかったことを書く
そして、
本を読んで、眠たくなったら寝る
前までは、何を食べたか
体温、体重、みた夢なども
記録していた
そう、記録
あったこと、事実を書いていた
日記もだれに見られるわけではないのに
感情昂ることあっても
そこは無視して、淡々と出来事を書いていた
感情を知るのが少し怖かったのかもしれない
それに気づき、いつからだろうか
毎月の誕生日に、自分会議というものが
ルーティンにくわわった
日記は手書きだが、自分会議はパソコン
けど、最初はクセで
その月にあったことを書いてしまっていた
日記にすべて書いてあるのに
昔から人に感情を出すのが苦手だけれども
自分も自分の感情がわかってない、だと
日記を感情中心にしようと意気込むも
数日でいつの間にか、記録になっている
形状記憶合金のようだ
心の形状記憶
思考も落ち込み方も
楽しいも日常の動きもクセが
あるのだろうか
そりゃあ、30年以上も
1日1日を過ごしているのだから
クセみたいなものがあるか
無意識が決定しているものが多い
きっと、今日履いた靴下も
昨日履いた靴下も同じ足から
履いているのだろう
どっちだろう
右かな
あれ、左な気もする
明日確認してみようと思っても
どっちから履いたなんてこと
確認することも忘れ
無意識に右か左からか履いているのだろう
明日のわたしよ
自分と向き合うことって
なかなか難しい
記録でなく感情ならなおさら
そして、
ひとりならなおさら
定期的にも不定期にも
わざわざ自分と向き合う時間は
必要だな、と思う
心を知る自分時間
tsukifune.では
「Dear,Me」という自分宛に書く手紙を
やっている
→
わざわざ予約して
わざわざ自分宛に手紙を書く
携帯やパソコンでなく
わざわざ手書きの手紙
その手間が自分のためにつかった時間
誰かのためには快く時間をつかえるのに
自分のためは後回ししてしまうからこそ
いま
わざわざ、が必要なのかもしれない